ーその時わたしたちはー三月十一日(金曜日)

ーその時わたしたちはー三月十一日(金曜日)

私の住んでいる栃木県宇都宮市は、震度6強の揺れでした。
大地震があった、午後二時四十六分、私は娘と一緒に2Fのリピングに居ました。地震の30分程前、「もえぎ本店」での個展の際にお世話になったTさんが、ある用事で我が家に立ち寄って下さったので、近所のケーキ屋まで自転車(私は30分圏内なら何処でも自転車で行くのが好きです。)で行き、栃おとめのロールケーキを用意してありました。Tさんが2時頃にお帰りになり、娘が早帰りの日程により2時半頃に小学校から帰って来ました。ロールケーキを食べたがったので、二人で一緒に食べました。
その直後、「えっ?」と普段の感覚が大きくずれる程の大きな揺れがあったので、娘を抱くようにして1Fへ降りました。1Fのお店部分(元中国骨董屋、現在は夫のアート、木製品、布のランプシェードなどがあります。)の製図板の下に娘に座布団を被らせて座らせました。娘は青い顔をして、ぶるぶると震えていました。お店の食器棚や飾り棚から、骨董や木製品がバラバラと落ちて来てガシャガシャと大きな音が鳴り、天井に吊るしてある、ランプシェードやその骨組みが大きく揺れ、今にも落ちて来そうな勢いでした。古い木造住宅の我家はギシギシと音を立てながらもなんとか踏ん張っている様子でした。
私は、「まさか、この辺りでこんなに大きな地震があるなんて、、、、、。」と呆然としながらも、棚が倒れないように押さえていました。娘が「ママァー、ママァー!」と大声で呼ぶので、とにかく怖がる娘を守らなければと、娘に駆け寄り、大きな揺れがおさまるまで娘の体に覆いかぶさる様に机の下にしゃがんでいました。
阪神大震災の時、西宮市で被災した私。
「どうか、あの時のような大きな揺れにならないで!」と心の中で叫びながらも、娘には「大丈夫、大丈夫」と言って聞かせていました。

息子は保育園。夫は小山市にあるアトリエ。。。
最大の揺れ(震度6強)が治まった後、冷静になると、この程度の揺れで済んだのならこの辺りの住民や家はきっと無事だろう。。。保育園は新築したばかりの立派な建物だし、頼もしい先生方が子供たちに付いてくれている。夫は?きっと直ぐに家に向かっているだろう。事故などないといいが、、、。

外に出て近所を見渡すと、瓦がずれ落ちている家はあるものの、そんなに大きな被害は無さそうで、皆さんたぶん無事なようで少し安心しました。お隣の奥さんが赤ちゃんを連れて外に出ていたので少し話しをしました。「震源地は宮城県付近らしい」と聞きました。

大きな揺れが治まった後、床に散在しているガラスや陶器の欠片などの危険物を取りあえず集めて紙袋に入れ、家の中で安全に歩ける道を作りました。骨董や北欧食器が数十点、割れて床に転がっていました。2Fに上がり、携帯電話で夫に連絡を取ろうとしましたが不通。家の電話も不通。そして停電でした。
近所の保育園に居る息子を迎えに行きました。途中、大谷石の石塀が崩れ落ちている家、瓦屋根が崩れ落ちている家を数件見ました。保育園に着くと、息子がうわばきのまま、外に駆け出して来て、「ママー」と抱きついて来て、一筋の涙をポロっとこぼしました。

それから1時間半後、夫が無事に戻ってきました。夫は家族の無事をまず確認。北欧食器が沢山床に割れて転がっているのを見て、息子が「パパの大事な食器、割れちゃった。」と涙を流す隣で、案外冷静に、何が割れて壊れたのかをチェックし、袋に分別し始めました。(そして次の日、セメダインで一生懸命に接着していました、、、。)余震が続いていたので、わたしは子供たちに安全な場所を作り(2F部分のない、1Fのキッチンのダイニングテーブルの下に布団や毛布を敷いて座らせていました。果たして安全なのかは不明ですが、、、)停電でしたが、幸い、水道、ガスは通常通りでした。暗くなる前に、危険物だけは片付けました。

夜はロウソクと懐中電灯で過ごし、夕飯は、冷蔵庫にあるもので適当に食へました。いつもは2Fのベットで寝ているのですが、余震を心配し、1Fの和室に布団を敷いて寝ました。まだ寒い3月の夜の不安な一夜。子供たちと夫は疲れたのか良く寝ていましたが、わたしは寝た気がしないまま、次の日の朝を迎えました。